ロレックス サブマリーナRef.16610オーバーホール
一見すると、非常に状態の良好なロレックス・サブマリーナRef.16610です。
しかし、最終的にはオーバーホール/部品交換で¥68,775という金額がかかりました。
1990年以降に生産された3針のロレックスの場合、当社で5万円を超える修理となる例は、全体の3%ほどです。
この水入りなどの形跡もないサブマリーナは、どうしてこんな高額の修理となったのか?
お客様からの聞き取り調査で判明した使用状況の詳細や、内部の部品のクローズアップ画像を交えながら、警鐘の意味合いも兼ねて解説いたします。
当社独自の受付手順に沿っていただき、お客様の手元にある段階で、問い合わせフォームからサブマリーナの画像と現在の状態を知らせてもらったのですが、その段階で非常に気になる以下の記述がありました。
”ワインディングマシーンが壊れたため手巻きで動作させていましたが、1年ほど前にカリカリと空回りして巻けなくなりました。”
”その後は手で振って動作させていましたが、昨日になって時間合わせなどのリューズ操作が全くできなくなりました。”
”現在1日に12秒進みます。1990年に購入してからオーバーホールは一度も行っていません。”
これはかなりの重症であると予想しました。
画像では外見にそれほどダメージや経年劣化が見当たらない事に加え、+12秒/日という精度からは予測し難いのですが、このお客様の的確な説明が無ければ、事前の概算見積は安価な方向へ、誤ってお伝えするところでした。
多くの場合は画像から得られる情報が勝るのですが、このサブマリーナは現在の状態の申し出が決め手となりました。
このロレックス サブマリーナRef.16610の場合、一番問題となる点は23年間オーバーホールを一度も行っていないという点です。
Cal.3135搭載のロレックスは、6〜10年ほどでゼンマイが切れて停止してしまう事も多いのですが、たまたま切れずにいたために、これだけ長く使用し続けてしまったのです。
画像はcal.3135の切れたゼンマイです。
Cal.3135の場合、ほぼ間違いなく、同じ個所が切れるという特徴があります。
これをcal.3135の欠点と捉える向きもあるようですが、私は意図的にそう設計されているのではないかと踏んでいます。
そのあたりの考察はまた機会を改めて紹介したいと思います。
まだ動作しているからと、オーバーホールせずに長年使用した時計がどのような状態になるかは、こちらのページをご覧ください。
その上、更に拍車をかけたのがワインディングマシーンを使用していた事です。
ワインディングマシーンを使用し続けた場合、状況によっては最悪の事態を招くという事はあまり知られていない事実です。
こちらも詳しく解説したページ(Q1参照)がございますので、ぜひご覧ください。
お客様からの問い合わせフォームの申告で、まず注目したのは「リューズが空回りして時間合わせが出来なくなった」という点です。
これはcal.3135系搭載機種でも、特にサブマリーナで頻発する症状で、原因はオイル切れの状態のまま無理に針回しを行った事によるものです。
Cal.3135はデイトジャストやGMTマスターなどにも使用されているのですが、空回りして時刻合わせが出来なくなる症状はサブマリーナで頻発します。
これは何故かと申しますと、サブマリーナが極めて大型のリューズを使用しているためです。
リューズが大型という事は、指の力をそれだけ大きく伝えてしまう事となりますが、オイル切れを起こした針回し機構は稼働せず、瞬時に歯車を破壊するという結果を招くのです。
画像は、このサブマリーナの針回し機構そのものです。
中心の歯車の10〜12時位置が欠損しているのが確認できますでしょうか。
デイトジャストなどでもオーバーホールを怠ると、当然同様のオイル切れが起こるのですが、リューズの径が小さいせいで、歯車を破壊してしまう前に明らかに針回しに違和感を覚えるためか、そこでリューズ操作を止めてしまうようです。
そのため、結果として歯車の破損を未然に防いでいるものと推測されます。
「リューズが空回りする」というお客様からの申し出があると、真っ先にリューズの不良を疑う修理店は多いですね。
しかし当社では、お問い合わせの段階で一歩踏み込んで診断します。
針回し/カレンダー早送りは不可能なものの、ゼンマイ手巻きモードで「シュー、シュー」というゼンマイが巻き上がる感触は変わらない事が確認出来ますと、リューズは無事であるという診断が可能です。
サブマリーナのリューズは大変高価な部品の一つです。
リューズが比較的安価で提供できるメーカーと異なり、当社の場合は交換部品の項目にリューズが有るか無いかで、見積金額が相当違ってきます。
それでも当社のリューズ金額は他社に比べてかなり安価ですが。
画像は今や大変な貴重パーツと化した、サブマリーナRef.5513,5512,1680用生産当時のリューズとチューブです。(非売品)
長年オーバーホールを行わないと、オイルで潤滑されている歯車がサビで固着し、手巻きを行った瞬間に「キチ車」という歯車が欠ける事があります。
下の画像は欠けてしまったものと正常なキチ車を並べています。
このキチ車の大きさは、大体時計の大きさに比例しますが、このcal.3135の場合はかなり小さめに設計されており、直径およそ2.0mmくらいでしょうか。
歯が欠けていれば目視による確認もしやすく、見積りの段階で当然交換部品に加えるのですが、このサブマリーナの場合、歯の欠けはありませんでした。
しかし、キチ車には交換が必須となるダメージがあったのです。
分かりにくいのですが、赤丸で囲んだ部分の表面が削れて、色の感じが変わっているのが確認できます。
具体的には表面処理が剥離して、光沢が出たような変化をしています。
30倍倍率で撮影してもこれだけのわずかな変化ですので、肉眼は勿論の事、時計修理業者のほとんどは、顕微鏡を使用せずに目に装着するルーペ(俗にキズ見と呼ばれます)を使用していますので、こういった大きな欠けや変形の無い異常は見落としがちです。
この部分はゼンマイを手巻きする際に噛み合う部分ですので、ここが摩耗/変形していたという事は、オイル切れで固着した巻き上げ機構を、半ば無理矢理に長期間にわたって操作していたことが予想されます。
このあたりは、現物を拝見する前にお客様からの申し出に「翌朝停止するようになってきていたので、1年ほど手巻きをして使用していた」とあった事で、ある程度予想がついておりました。
そのため、見積もり段階でこのキチ車を含む、手巻き/巻き上げ機構を重点的にチェックするようにしましたので、異常を見落とさずに発見する事が出来ました。
こういった申し出があるか無いかで、見積りの正確度が違ってきますので、「こんな事は大して関係ないだろう」という事柄でも、とりあえず知らせてもらえると助かります。
しかし、ダメージはこのキチ車だけでは無かったのです。
さらにダメージがあったのは、ゼンマイ手巻きの際に、キチ車と噛み合ってゼンマイを巻き上げる「丸穴中間車」です。
下の画像は、使用して若干の摩耗があるものの交換不要な正常品(左)と、この重症サブマリーナのものを並べてみました。
右の歯車は、歯先が完全に潰れてしまっていることが分かります。
オイル切れの状態でゼンマイ手巻きを行い続けると、ほとんどの場合、抵抗や違和感を覚えて手巻きを止めるか、前述のキチ車が先に欠けますので、丸穴中間車がここまで変形しているものは初めて見ました。
お客様からの申し出があった事で、見積もり段階でここまで踏み込んで分解して確認して、交換部品に加える事が出来ましたが、そうでなければキチ車が欠けていなかったために、危うく見逃すところでした。
概算見積りの段階で、オイル切れで抵抗の増した状態で長期間ゼンマイ手巻きを行ったという報告をいただいていた事から、念のため高価なリューズ交換まで見越した金額をお伝えしておりました。
現物を詳細にチェックした結果、やはり接合部分に負担がかかっていたようで、間もなくリューズが空回りして、針回しとゼンマイ手巻きが不可能となってしまう恐れがある状態でした。
実際に現物を拝見する前、メールでの概算見積りの段階で「状況から判断しますと相当数の部品交換となり、高額の修理代となる可能性が高い」とお伝えしていましたので、お客様もあらかじめ心積もりが出来ていたようです。
以下のような見積もりとなりましたが、即答で修理進行の連絡をいただきました。
オーバーホール ¥26,250
歯車芯研磨×3 ¥6,300
ゼンマイ交換 ¥3,675
丸穴中間車 ¥7,350
小鉄車 ¥3,150
キチ車交換¥6,300
リューズ交換 ¥15,750
合計 ¥68,775(修理完了時の価格です)
この重症サブマリーナの事例を振り返ってみると、やはりメールでのお問い合わせ/概算見積の段階で、思い切って高額になる可能性も示唆しておいたことが功を奏したと言えるでしょう。
可能性として低いものの、現物も見ていない段階で、念のため高額となる概算見積りを提示した結果、他社へ依頼されたらどうしよう?という不安は必ずついて回るものです。
お客様の心理として、実際に時計を預けた後は思わぬ高額になったとしてもキャンセルに踏み切りにくい、といった感情が働きます。
その感情に甘えて、後から部品代が加算され、結果として概算見積よりも高額となる事は出来る限り避けたいと思っております。
後から高額になるというのは、やはり信用を落としますし、作業をする方としては必要な部品代を転嫁しにくいため、「何とか部品交換無しで済ませよう」という心理が生まれます。
その結果、中途半端に費用がかかってしまうものの、結局保証期間を少し過ぎて不具合が発生し「保証期間は過ぎておりますので」という、お客様にとって最悪のパターンとなるのです。
業界の恥ずべき事実ではありますが、このような事態となってから、当社に相談される例が後を絶たないので、思い切ってここで述べさせてもらいました。
それでも完全分解した結果、これまでの経験でも想定外となる部品交換が必要となり、最初にお伝えした概算見積よりも高額となる事が0%に出来ないのが嘘偽らざる真実です。
その場合、ダメージを被っている部品の顕微鏡画像や、そこまでの状況に至った原因の推測を詳しくお伝えする事で、出来る限りお客様のご理解を得るようにする事が大事であると思っております。